公開: 2024年2月6日
更新: 2024年2月6日
現代日本社会の教育制度で、近年、高等教育において、顕著に見られるようになった問題の一つに、「大学が提供する教育内容に、学生の適性が一致していない」というものがあります。例えば、医学部に入学した学生の中に、親や親戚に医学関係者がいない例があります。このような学生の中には、医学系学部学科をもつ総合大学の中で、最も入学が困難な、高い偏差値を要求される学部学科が、医学部であるという現実があります。このことは、進路指導を行う人々の目から見ると、最も高い学力を持つ受験生は、医学部を受験するのが普通であると考えます。
もちろんその受験生の身近に、医学関係の現場で働く人が居れば、大きな問題は発生しないのですが、そうでない場合、その受験生は、大学への入学後、自分は何を学び、どのような教育を受けるのかについての知識を持たずに大学へ入学します。医学部の場合、人体解剖の実践があり、実際の死体を解剖しなければなりません。学生によっては、死体に触ることや、人体を切り開いて、臓器一つ一つを取り出し、その感触を体験することなどには、嫌悪感を抱く例が少なくありません。腹を切り開いて皮膚に着いた脂肪をメスで取り除く作業は、それ自体が重労働であり、その時の触感の記憶は、普通の人には、強烈すぎるのです。よく、「卵料理が食べられなくなる」と表現する学生がいます。
そのような経験にも拘らず、医者としての知識の獲得を続けられるのは、その長い年月にわたる教育訓練を終えた後に、医療従事者として、人々の命を救う仕事に従事できると言う、明確な目標を意識できるからです。そのような将来像を持たずに、入学した学生は、その教育過程の途中で、別の道に進むことを選ぶ場合があります。医学部の学生を育て、医療従事者にするまでには、莫大な経済的投資が必要です。公的な教育機関では、そのほとんどを国民からの税収入に頼っています。そのような教育の途中で、学生が、退学や転学部で、専門家になる道を変えれば、本人の時間的痛手も小さくはありませんが、国家の予算を無駄に消費したことになります。
現代日本の教育制度は、この医学部の例に端的に示されるように、教育を受ける学生や生徒の適性と、教育で学ぶべき知識の内容との適合性に関係なく、時として、生徒の偏差値と、大学の学部学科の偏差値だけで、近視眼的に生徒の進路を選択する結果に陥る問題があります。学生の将来の仕事の選択の範囲を狭める必要はありませんが、偏差値と将来の仕事の社会的な評価だけを頼りに、自分の進むべき道を選ぶことには、問題があります。